オウム死刑執行に思う事

残る6人の死刑執行が行われたという速報を聞いて、何かしら違和感をおぼえたので、書いてみたいと思う。

私は死刑廃止論者ではない。けれども、死刑判決を受けるような人物が、なぜそこまで犯罪を繰り返す、または大勢を死に追いやる事になったのかというところを、誰か解明し、対策を打っただろうか? というところに疑問を感じるのだ。

比較的知的レベルの高い彼達(死刑対象になった信者)が、何ゆえ信仰の道に深入りしたのかという所が重要な気がする。当時、日本では物質的な欲求が満たされ、次は心の満足の時代だと言われていた。はたして当時、多くの人々は心の満足をどのようにして満たしていたのだろうか? 自分も含めて振り返ってみると、たまたま自分は阪神淡路大震災の被災者となり、家を建て直す必要もあり、そのためには稼がなくてはならないという事態に陥っていた。なので、一旦、物質的欲求を求める段階になっていたので、あまり心に空虚さを感じている暇が無かったような気がする。

被災して1ヵ月くらい、事態の収拾に追われて、仕事を休み、手元にある材料で1日3回食事を作り、壊れたものを捨てたり修復したり、避難先の段取りをしたりという時は、それまで仕事上の小さな事でああだこうだと議論していたのがばかばかしいと感じたりしたものの、被災しなかった人との温度差をどうこうしている余裕もなく、あっという間に元の価値観に戻ってしまったことを記憶している。

仮に被災者たちが「それはちがうだろう」と非被災者集団に対して叫んだとしても、結局大勢は非被災者であって、その大きな波に立ち向かうにはパワー不足だったような気がする。

では、非被災者の人たちは、それこそ心の満足に対してどんな立場だったのだろうか?弱肉強食の資本主義社会にあって、社会をリードする強者たちは心の揺らぎを感じる事もなく突進していたような気がする。一方その他大勢の中には、癒しを求めるトレンドが膨らんでいった。「癒し」という言葉は心の隙間を埋める際のソフト系の対応だろう。具体的には、○○テラピー的なもの、例えばアロマテラピーとか、森林浴とか、そういったものだ。「ストレス発散」的なもう少しアクティブな対応も世界が広がったような気がする。スポーツやトレーニング的なものの種類が増えたし、携帯などで「つながる」ことも一種のはけ口になったように思う。

ただ、鬱とかプチ鬱といったものが蔓延するようにもなり、鬱による休職も増えたように感じる。

マインドコントロールがあったのは間違いないが、何か満たされない心の隙にオウムが入り込んだのは間違いない。常日頃感じている矛盾や疑問に何かしら答えてくれる存在だったのではないかと推察する。オウムが過激な方面に突き進む前に、彼らは当時の社会を変えたい、変えないといけないという強い理想を共有していたようだ。その手段として、選挙に立候補者をたてたりしたが失敗。別の方法へと突き進むことになる。選挙と言うオーソライズされた社会システムは彼らの理想を実現するには役に立たないことを知り、別の方向に舵をきったのだろう。

なぜあそこまで突き進む前に止められなかったのか? もちろん閉鎖的な空間にいて一般市民との接触が極めて少ないし、しかも結構な大集団となっていたから、彼らを止めるのはとても難しくなっていた。そこまで巨大化する前に止めようと活動した弁護士やジャーナリストたち。かれらの力だけでは止めることができなかったのだ。

結果として地下鉄サリン事件など凶悪で多くの死者を出す犯罪が現実のものになってしまった。

死刑になった信者の一人一人をとってみれば、実は弱い一人の人間だったにちがいない。また、ある種理想に燃えてやった行動だったかも知れない。

いくら理想に燃えてもああいう手段を取ったらだめだという戒めとしての死刑なのだとは思うが、現実に執行されてみると、違和感はある。だって彼らが投げかけた課題は放置されたままだもの。
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